日本の新幹線の黎明期を歩んだスーパーシニア荒井貞夫さんを紹介しよう。
荒井さんは、1958年に栃木県立足利工業専門学校を卒業、国内有数の鉄道車両の製造会社である日本車輌製造へ入社した。
配属は、鉄道車両の設計部門だった。新幹線の生みの親として知られる十河信二(そごうしんじ)氏の強い信念で世界中でも前例の無い一大プロジェクトであった夢の超特急 東海道新幹線が開業に向かう時代だった。
昭和37年(1962)4月25日に日本車輌の蕨工場で新幹線第一号車が完成し、十河信二国鉄総裁ら国鉄幹部を迎えて蕨工場の構内800mで構内試運転が行われ、新聞やテレビで初めて姿を現した新幹線電車を大々的に報道された。1964年に開催される東京オリンピック(10月10日~24日)に先立つ10月1日に東海道新幹線 東京-新大阪間「ひかり1号」が開業した。
それまで東京大阪間の所要時間は6時間30分から、夢の超特急「ひかり」が東京-新大阪間を3時間10分(開業当時は4時間)で走ると言う事で、日本国中で話題を呼んでいた時代だった。敗戦から20年も経たないうちにいきなり時速210kmを実現し、世界をアッと言わせ、日本人が世界に誇りを持った時代が来た。
その第一号車の設計に携わったのだから荒井さん自身も感無量だったと思う。 当時の事を聞いてみると、
「最初は貨車の設計、市電の車体、私鉄電車の車体などを先輩の指導を受けながらやっていました。貨車は車体・ブレーキ装置・連結器装置など全部を任されるまでやりました。新幹線電車は僅かに、部分的にやっただけですが、モックアップが出来ると図面だけでなく、新幹線電車の先頭部の形状がわかり、これが新幹線電車だと日本車輌に入社した事を誇りに思いました」。
と当時を懐かしそうに語ってくれた。
その後、車両関係の業務で国外への車両技術輸出・技術提携契約などの海外業務が多くなる。とりわけ海外での功績が大きく、インドネシアで貨車、客車の国産化に協力、また韓国ソウル2号線、プサン1号線地下鉄電車国産化技術協力などを経て、1988年2月から日本車輌製造(株)ジャカルタ事務所長として4年間赴任。その後も、鉄道車両関連業務に携わり 1999年にはインドネシア合弁会社 PT. Rekaindo Global Jasa の副社長として、8年間インドネシアの鉄道発展に貢献した。 2007年にPT. Rekaindo Global Jasa退社後は、ベトナムへ移住しようと計画をしていたが 当時の日本車輌の松田社長の薦めで、国立科学博物館で日本鉄道史の主任調査員を務めた。
さらに、これらの経験を買われてJICA(国際協力機構)からマレーシアへ6ヶ月間派遣され、日本でも人気の高かった14系客車のブルートレイン「富士」と「はやぶさ」をマレーシアで復活させる業務を行い、このプロジェクトがNHKの「おはよう日本」で特集され一躍著名人の仲間入りをしたようだ。
2013年からは、地元蕨市の行政運営長期計画審議委員を歴任し、また長きにわたり鉄道関連の仕事に携わったことにより蕨駅開業120周年記念実行委員会事務局長として、蕨市の賑わい創出に貢献した。これが「わらてつまつり」に成長し蕨市から観光事業として認められ、毎年7月に2日間開催。 近年では、「わらてつまつり」事務局長として2023年7月蕨駅開業130周年記念事業を開催、蕨市の教育関連、ボランティア活動。JICA国際協力機構/鉄道専門家、蕨市選挙管理委員会・蕨市環境審議会・蕨市国際協力委員会、蕨戸田衛生センター組合・1750世帯地元の町会など市民の暮らしを良くする市民活動家として活躍している 。
2020年からの新型コロナウイルス感染症の影響で市民活動は、一時休止となったがコロナ明けの現在、さらにパワーアップして市民活動に励んでいる。 6年前から、シニアの集まり「笑楽日塾(わらびじゅく)」を創立し、塾長として60~80歳のシニアの深い経験を語り合い、地元のケーブルテレビで90分の講座をZoomを使って2年半継続し、記念誌を毎年発行している。
そんな荒井さんに、84才の誕生日を迎えたときに今後の抱負を聞いてみた。
「私はゴルフ好きなので、100歳までゴルフを続ける事。」なのだそうだ。
100歳までゴルフを続けるには体力と気力が必要で、そのために近くのゴルフ練習場へ毎朝練習に行き100球のボールを打ち込む事。その後、家に帰り朝食、午後からはジムに行き筋力トレーニングを行ない体力維持を図っているそうだ。
先日、ゴルフ倶楽部へご一緒したが、ドライバーは、ほぼフェアウェイをキープ、バターもボールがカップに吸い込まれるように簡単に入ってしまう。 ご一緒した時は、83歳で自分の年齢以下のスコアを出すエイジシュートまで1打届かない84というスコアだったが、とても立派なスコアを記録したがエイジシュートはまだ達成していうないという。
ところが、84歳からちょうど一ヶ月後の2023年11月21日に群馬県にある板倉ゴルフ場で42+41=83でAge Shootを達成したそうだ。これは素晴らしい!。
さらに、日々の食事に関しては、朝は、白いご飯(ゼラチン入り)、納豆・大根と人参のすりおろし、シラス(小魚)、キュウリのぬか漬け、豆腐の味噌汁(煮干し5匹入り)昼はヨーグルト+ココア+ごま+蜂蜜+バナナのスムージー+ヤクルト1000、果物、ピーナッツ10粒+アーモンド5粒。昼はご飯もパンも食べない。夜はご飯に肉と魚を一日おきに、+煮物+サツマイモまたはジャガイモまたはカボチャという健康に良い内容の食事に気を配ってくれる奥様との仲の良いオシドリ夫婦だ。
ご自身で体を鍛えて行政の仕事や、町会運営、近所の5つ大型マンション(1200戸)の集まりMC会の代表幹事、自分の住むマンションの大規模修繕委員長、広報誌編集長など、体と頭を休める事がない程、毎日、充実した日々を過ごしているという。 いろいろな事を頼まれて気安く引き受けて、人前で失敗して、恥をかいて、この次は気をつけようと自戒しているのだそうだ。
ここまで自身の生活と街のために尽くすことは、なかなか出来ないのがフツーだが、荒井さんは、このフツーを通り越しているスーパーシニアだ。
私たちも、スーパーシニアに負けないように、健康管理に気を配りアタマを使って仕事に頑張ろう。
Text:Takashi Ohtsuka
日本車輌製造(株) https://www.n-sharyo.co.jp/
新幹線ヒストリー https://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/shinkansen/tec-history.html
笑楽日塾 https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2023/09/17/060000
わらてつまつり https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ee04dcd5eebf5489982c21e57dad5b44b3d94665